母の話から。3月10日は東京大空襲の日
2023年3月10日(金曜日)
晴れ。今日も暖かい。
朝の散歩は、いつもどおり。
今日も春の花をみつけました。
分かりにくいけれど、小さな紫の花が咲いている。
ローズマリーかな?
爽やかな香りもするし…。
花のことを考えるのも楽しい。
☆☆☆☆☆
母の体験を書こうと思う。
3月10日は、東京大空襲の日。
1945年のその日、15歳の母は、隅田川近くの工場で働き、夜は寮の大部屋で眠る毎日を送っていた。
いつ空襲警報が鳴るかも分からないので、寝る時にも靴をはいたままだ。
10日の夜間、爆撃の音で目覚め、一斉に逃げろ、ということになったらしい。
爆撃と戦火のなか、どこに逃げて良いかも分からす必死で逃げたのだろう。
気がつくと川辺だった。逃げ惑う人々。火の手は上がり。行き止まりである。
15歳の母は、おそらくパニック状態だったろう。
その時、川の方から人の声がした。
「そこにいたら、死んじまうぞ!飛び降りろ!」と。
川を見ると、停めてある筏に7~8人の人がいて母を受けとめるべく布団を広げていた。
母が言うに、筏までは、かなりの高さがあったらしい。
母は、思いきって飛び降りた。
夜中じゅう、筏に、飛び火が来ると皆で水をかけてしのいでいたそうだ。
川にも火が上がっており、流されていく、物、動物、人が、たくさんあったと。
朝、戦火が収まり、筏の人たちは、互いに挨拶をする心の余裕もなく、すぐに、それぞれは別れたと言っていた。
母も、職場への道?、もう焼け野はらで道かどうかも分からず。途中には、至るところに爆撃による死者がゴロゴロしていたそうだ。
母いわく、頭がバカになってしまい、悲しい気持ちもわかず、平気で歩いたそうだ。
そして、工場は焼けて跡形もなく、工場辺りに着くと見知った同僚の子に会えた。
二人で、抱きあって暫くの間泣いたそうだ。
何人か、働いていた子たちがいたけれど、おそらく助かったのは、母とその子だけだったようだ。
何回か聞かされた、母からの3月10日の話である。
そして、もうひとつ印象的なエピソードを。
後年、私たちが家族旅行で沖縄に行ったとき、ひめゆりの塔に寄り、みんなで資料館に入ると、早々に、母は、そわそわし出し、オーバーな言い方をすると、ちょっと常軌を逸してるような感じがした。
母は、「ここは、止めにして、みんな早く出ようよ」と、私たちに言うのだった。不安な顔と、私たちを守ろうとするかのような表情で。
母の様子をみて、私は、直ぐに、もしかしたら戦争のフラッシュバックなのでは?と感じた。
母と、私、娘、息子、そして私は、ほぼ何も見ず資料館を後にした。
その後は、母も話題に出さないから、私たちも深掘りせず、楽しい旅行を続けたけれど…。
母の戦争は、終わっていないのだった。
戦争の体験が心に焼き付いて離れない。
傷ついた心は、容易に戻りはしないのだ。
戦争、絶対反対である!